教育改革
(2)義務教育の見直し
義務教育と言えば6・3・3制のうちの6・3の9年間をいうのであるが、日本の未来を展望した時にその9年間の義務教育という制度がこのままでいいのかというとそうではないと思う。基本的な義務教育の目的から改革が必要である。
戦後の日本における教育は、「生活・経験重視のカリキュラム」,「系統・構造重視のカリキュラム(詰め込み教育)」,「人間性重視のカリキュラム(ゆとり教育)」、「生きる力を育む教育」と大雑把に言ってそのように推移をしてきた。ただ一貫しているのは、平等な教育によって落ちこぼれのない子供を育てていくという基本に立って行われてきたと思っている。しかしそのことは逆から見れば落ちこぼれないかわりに、突出した才能を伸ばす教育ではなかったのではないか。日本の子供達の学力が低下を続けて低迷をしている。かつては数学について世界のダントツを走っていた日本の教育は諸国の追随を受け目立つ存在ではなくなった。例えば一つの例として、現在の世界の大学ランキングには日本の大学はトップグループに入ることが出来ない。
私は教育の平等も大切かもしれないが、個々に有する才能を高く伸ばしてあげる教育が今こそ必要ではないかと思うのである。数学に才能を有する子供、科学に才能を有する子供、物理に才能を有する子供、医学に才能を有する子供、それが音楽だったり絵画だったり文学だったり、なんでもいいのである。素晴らしく秀でた才能を開花させる教育を義務教育の段階から特別なカリキュラムの中で行っていくべきだ。平等、平等だけでこれからの日本を担っていく優秀な若者を育てていくことが出来るのか。普通の一般的な子供達は平等でもいいのかもしれないが、世界のトップを走って行けるような若者を育てていくには、特別な教育が必要ではないのか。
このsectionの表題は義務教育の見直しとしているが、むしろ義務教育の目的の見直しといったほうが適切だろう。私は、そういう意味で今こそ義務教育の見直しが必要だと考える。将来の日本の発展のために、子供達の才能を大きく開花させるツールが必要なのである。現在の日本には各県に国立大学付属小中学校がある。それらを独立した国立の学校に変え、特別なカリキュラムを持たせる。そして特別秀でた才能を有する子供達に世界のトップを目指す教育を施すのだ。予算は必要なだけ準備する。これらのことは今後の日本の発展を考えれば本当に必要な事であろう。
(3)高校大学の改革
高校に関する改革
日本の高校というものは今の制度がベストなのか。私はそうは思わない。現在の高校生活の3年間は実に多忙な時期であって、おおよその自分の進むべき道を決めていくには教育の専門性やカリキュラムが大雑把すぎて極めて中途半端である。これからの日本を背負っていく子供達を育てていくには、16才から18才までの人生で最も多感な高校時代という大切な時間の中においては、もっと目的を明確にした教育が必要であろう。特に世界を目指す才能溢れる子供達に、専門性を明確にした教育を行っていくことが大切ではないか。
例えば音楽の分野で生きていこうという若者には音楽を中心としたカリキュラムの高校があっていいし、絵画の分野で生きていこうという若者にはそれらを中心としたカリキュラムの高校があっていい。野球や陸上などをはじめとして、運動全般を磨く高校があってもいい。現在の高校は一般的な教養を身に着ける教育がほとんどであって、秀でた才能を持つ特殊な子供を教育する場ではない。もちろん一般的な教養を身に着けようとする子供達は現在の高校と同じような教育を受ければいい。それはそれで意味のあることであって大切な事である。現在の日本においては秀でた才能を持つ特殊な子供達は、高校とは別の組織の中で個人的に教育を受けている場合がほとんどであり、家庭の負担が大きくなり裕福な家庭の子供でなければそれらの教育を受けることができないことが多い。裕福な家庭ではない子供達にとっては、例え溢れる才能を持っていても高校の3年間において専門的な教育を受けることが出来ないというのは国家的な損失であると思う。そして不平等でもあろう。
それらを考慮して提言するのだが、世界のトップを担っていく人材の育成のために前述した専門性を明確にした高校を創っていくべきであろう。前sectionでも申し上げたが、国立小中学校と同様に、今ある国立大付属高校に独自のカリキュラムを設けて、秀でた才能を更に開花させる高校教育を実施していくべきである。教育の平等という考え方も一方では大切であろうが、今後の日本を背負っていく極めて優秀な人材の育成というものは、もっと大切ではないのか。そういった有能な人材の育成にとって高校で学ぶ3年間というものは、本当に大切な時間であり著しい成長ができるチャンスなのである。さて、生活が多様化する中で子供達を取り巻く環境も大きく変わってきている。ひとり親家庭が増え、子供達の困窮が社会問題化している。そして、家族の介護に従事せねばならないヤングケアラーと呼ばれる子供達も大変増えてきているという。
貧富の差によって教育を受ける機会に差があってはならない。国や県、そして市区町村の教育機関は、新たな制度を創って行くべきだ。具体的に言おう。高校生活を送るのに必要な経費があって、貧しさのためにその経費を準備できない子供達には支給をしていく制度を創る。授業料、通学費、家賃、生活費など、必要な物を行政が支給するのだ。そして支給されたものは社会人になって相応に返済していく。高校は義務教育ではないが国はそのぐらいはやっていくべきではないか。好んで貧しい生活に境遇を置くわけではないだろう。いろいろな事情の中でそうなってしまった子供達に教育の場を与えていくべきではないか。私はそう思うのだ。
最後に、各高校を単位性にしなければならなくなるだろうが、他の高校の授業も受けることが出来る制度があってもいいと思う。自分が勉強してみたい授業、またはあの先生の授業をぜひ受けてみたい、そういった授業があった場合に望めば受講できる、そのぐらいの柔軟性が高校教育にあってもいいだろうと思う。いかがだろうか。
大学に関する改革
小中学校や高校と比べると大学の改革というとコンセプトはしぼられていて分かりやすい。大学はおのずと学習、研究する目的があってそこに学生が集まってくるので、あと問題になるのはそこをどう充実させていくのか、どう世界のトップの人材を育成していくのかということになる。
優秀な人材を育成していくというのは未来への投資であるから、日本の国としても本腰を入れて取り組んでいかねばならない事である。しかし今までの教育の現場を見ていると国は努力を怠ってきた。1980年代から30年間行ってきたゆとり教育と称する方針に沿った教育は明らかに国力を落としてきた。子供達の学力を低下させてきたのは否定し得ない事実であり、優秀な人材を育成するのに困難な状況を作ってきた。国もそのことにようやく気づいて方針を転換したが、30年間に学んできた若者たちの学力は取り返しようもない。今後それらをどのようにリカバリーしていくのか、国はよっぽど力を入れて取り組む必要があるだろう。日本という国はよく国策をミスするが、ゆとり教育ということも明らかに大きなミスであって、国民に謝罪をせねばならないだろう。
さて大学に関する改革であるが、教育や研究の内容というよりはどのように充実した教育や研究を可能にしていくのか、そしてそれを維持していくのかということになるだろう。今の日本の大学は、正直言って真剣に勉強をせねばならない所ではない。卒業するのにほんのちょっと勉強すればいいというような所である。特に文系の学部はその点について楽である。私のクラスメートの中にはアルバイトばかりしていて学校にはたまに来るだけだったが無事卒業をした。他の国の大学はだいぶその点が厳しいようだ。私もあまり勉強をしてこなかったので反省を込めて申し上げるが、日本の大学はもっと勉強について厳しくあってほしいと思う。進級や卒業にあたってはもっと勉強の成果についてチェックを行っていくべきである。
余談になってしまったが話を戻す。勉強をしたい、研究を続けたいという学生に対するフォローが大切だ。十分な研究施設や予算、そして安心して勉学に没頭できる環境を国は作っていかねばならない。優秀な人材、世界のトップを担っていく人材を育成していくにはお金がかかるのだ。従って提言するのは、まず最初に奨学金の更なる充実が必要だ。そして必要に応じて研究費の支給も必要である。支給するにあたってはチェックが必要であろうが、対象が個人であったりゼミや研究室などの団体であったりといろいろなメニューを作っていくことが必要だろう。現在もそういった制度はあるのだが、もっと充実をさせていかねばならないということだ。前述したが、国は未来への投資だと思って思い切った予算の投入をしていくべきなのだ。
今まで述べてきたことは大学院や研究室についても同様である。ましてや研究室等に残って研究を続けている方々については生活を保障し、研究に打ち込んでもらうということが大切である。今もそのような制度はあるだろうが、もっと充実させねばならないと言っているのだ。家族を抱えて生活ということを考えた場合に研究を断念せざるを得ない優秀な方々も多くいるに違いない。従って、高校に関するsectionでも述べたが必要な研究者には通勤費や家賃、生活費の支給などを充実させていくべきなのだ。大学に関する改革については教育そのものというよりも研究を行っていく環境の整備といったことになっていくだろう。未来のために国としては真剣に考えて行くべきなのだ。
(4)人材育成への投資制度
また、大学や大学院、研究室と民間の企業の連携ということも大切な事であろう。現在もそのような連携はあるのだろうが、いろいろな形態の連携というものもあっていいだろう。国力を上げていくには研究機関にだけノウハウを蓄積してもだめだ。民間の企業にもそのノウハウを解放し共に研究開発を行い、それを製品化し利益に結びつけていかねば日本という国の力にはなっていかないのだ。従って国はそういった大学の研究機関と民間企業との共同研究開発には積極的に補助を行っていくべきだ。資本主義は国ばっかり強くなっても駄目で、民間企業の利益が国力を増大させていくのである。
国は国公立大学を運営することによって人材育成に投資をしているということになる。更に私学にも助成をしており、私立大学にも人材育成に投資を行っていると言っていい。民間企業についても、例えば特定の研究を行っている大学や大学院、研究室に対して、あるいは特定の研究者に資本を提供する代わりに、それによって生み出された新たな技術を共有し生産に結びつけて利潤を得ていくということも大切なことではないか。新たな人材育成への投資制度ということについても、もっと考えて行かねばならないことではないかと思う。
以上、大学に関する改革ということでいろいろと述べてきたが、結局国はもとより民間の企業ももっと大学や大学院、そして研究機関にお金を出せということである。研究者が研究に没頭できる環境を充実させていかねばならないということなのだ。実際に中国などは研究者にふんだんに予算を投じ、自国だけではなく世界中から優秀な研究者を集めている。日本も十分な対策を講じていかないと、アメリカ、中国をはじめとした各国にますます遅れを取ってしまう。これは警告と言っていいだろう。今が大切だ。日本も腰を据えて取り組むべきである。
コメントをお書きください