· 

皐月盆栽とわびさび

わびさびとは茶道や俳諧の世界で古来より論じられてきた事である。わびとは侘び、または詫びと書く。そして、さびとは寂びである。しかし、ここでは「わびさび」とひらがなで表記をしようと思う。難しく考えるよりも感覚で感じてほしいからである。

 

 わびとは、いろいろな意味があるようだが、わびさびでの意味合いとしては遥かな昔から茶道、俳諧などの世界での閑寂な風趣のこと、また閑居を楽しむ等の意味が妥当なところである。また、さびについても同様で沢山意味があるようだが、古びて趣がある。あるいは、老熟して味わいを生じるといったところが当たりであろう。つまりわびさびとは、閑寂の中で老熟して味わいが生じた物の古びた風趣を楽しむ、といったところであろうか。

 

 

 そもそも、わびさびの概念は中国の宋王朝(960~1279年)の時代に道教から生まれたといわれる。禁欲的かつ控えめに美を愛でる感情と捉えられ、禅仏教の中でその教えは引き継がれ、人々に浸透していった。日本においては万葉の時代からその概念があると言われ、万葉集には恋愛におけるわびしさを表現する下りがあるという。ただ、中国の宋時代を300年ほど遡っており、本来のわびさびとは一線を画すものではないかと私は考える。

 

 日本においてわびさびの起源を辿れば、室町時代の「わび茶」の創始者といわれる村田珠光(1422~1502年)が、当時の高価な唐物を尊ぶ風潮に対して、粗末でありふれた道具を用いる作法に茶の湯を変えていったことに由来すると言われている。ただ、初期においては茶道や俳諧の中でのわびさびであった。

 

    長い年月を経て、日本人はわびさびの境地をいろいろな物に投影していくことになる。それは絵画であったり庭園であったり、あらゆるものにわびさびを追及し感情を豊かにしていくのである。それらの一つに盆栽があった。盆栽の歴史は古い。樹齢1000年を超える物もある。当初は鉢にも取らず、野に育つだけだったのかもしれない。それを鉢に取り、姿形を好みに変えて、1000年を経て今も我々に大きな感動を呼び起こす。そこにも明らかにわびさびが存在している。日本人は長い間わびさびを追及しながら解釈を広げていった。風趣を楽しみながら、もっと深い何物かを探る心を養っていった。

2021年国風盆栽展に入選、東京都美術館にて
2021年国風盆栽展に入選、東京都美術館にて

    さて、さつき盆栽は初夏に美しい花を咲かす。その花の美しさはハッと息を飲むほどである。ある識者の表現を借りれば、世界で一番美しい花とも言われる。秋の紅葉も美しい。錦秋のまといは本当に「にしき」の如くである。また、厳冬の枝が透かされて引き締まった姿もまた美しいものである。そして、初春の一気に萌えるような若葉につつまれる姿は冬から春への喜々とした衣替えを演じ、我々に春の到来を感じさせる。役者が四季折々を演じるが如くである。

 

 

 さつき盆栽の専門誌に次のような文が載っている。

 「古いということは、長く生きているということだ。盆栽に生命の尊さを学ぶ。これが盆栽全般の価値というものだろう。」

 

 

まさにその通りなのである。古いということは長い間に幾多の数寄者の手によって時が刻み込まれてきた。いろいろな時代、平安な時も苦難の時も多くの人々の手によって盆栽は育て守られてきた。盆栽を見つめそれを愛でるということは、盆栽とそれに関わってきた全ての人々の生命と時代背景の尊さを感じ取ることである。つまり、それらの歴史を感じ取るということに他ならない。そして、それらを感じ取ることこそ盆栽全般の価値であるのだ。樹の格好が素晴らしいとか、花の姿が美しいとか、それはそれで大切なことではあるが、盆栽全般の価値はまた別の深いところにあるのである。これはまさにわびさびの境地であろう。さらに付け加えるのであれば、盆栽のそれまで生きてきた歴史に比べて、自分の命がいかにちっぽけで些細なものなのかということを感じ取る事が、最も深いわびさびではないのか。私には、そのように思えてならない。