安倍総理は自信が(潰瘍性大腸炎という)大病を患っていました。なんでみんなそれがわからないのかなと思う。いまは薬で抑えています。第一次政権のとき、病気のために、議員という立場は残ったけど、まさに政治生命を失った。何のために再び総理になろうと復活を志したのか。「国民の命をまもるためにやる」、これです。その総理にとって、「命の選択」(トリアージ)はさけなければならないとの思いは人一倍強いんです。
爆発的な感染者の急増(オーバーシュート)により医療破壊が起きるということは、例えば人口呼吸器を若い人に提供するのか、お年寄りに提供するのか、どちらかの命を助け、もう一方の命を救えないということが起きるわけです。しかし、そもそも民主主義は「平等」だったんじゃないですか。命の選択、選別があっていいんでしょうか。これを引き起こさないということです。そういう状態に持っていかないというのが最大の課題です。
2009年に新型インフルエンザが猛威をふるい、「パンデミック」(世界的な大流行)という言葉が使われた。オーバーシュートにより医療体制が間に合わず命の選択を迫られることは、教訓としてわかっていました。しかし残念なことに、これまで疫病に対する備えは、日本も米国も欧州も不十分だった。もし仮に「失敗」を言うなら、これ自体が失敗なんです。
現在、世界ではやむを得ず命の選択があると言われています。お医者さんは自分にも家族がいて、感染のリスクを背負いながら命を助けているけど、そのなかで命の選択をしなければならない。残酷なことです。医療関係者の方々に感謝しなければならないです。そこに偏見や差別が入ってはならないのは当然のことです。失敗や成功は、今いう事ではなくて、とにかく亡くなる方を少なくし、命の選択、差別をしないために、自分自身を律しながら、みんなで助け合おうということです。それを総理は使命としています。
「遅い」と産経新聞の世論調査でも批判が多かった緊急事態宣言ですが、機運が熟さないと効果はありません。なぜなら、宣言は法律上、命令ではなく要請して協力を求めるものですから。いまが大変な危機であるとの共通認識が生まれないと国民のみなさんの「協力しよう」という姿勢にならない。それがあってこそ八割自粛も可能となるのではないでしょうか。ちょっと遅い気はするけれども機運が醸成されたという意味で、あのタイミングだったと思います。スピードだけを重視したわけでもないということを強調しておきます。
朝日新聞だって社説で「市民の自由や権利を制限し、社会全体に閉塞感をもたらす緊急事態宣言には慎重な判断が必要だ」と主張してきましたが、「重みを十分に踏まえた対応を求める」と宣言を事実上認めています。早いか遅いか、成功か失敗か。その判断はいまは軽々にはできませんが、今後の教訓として、記録に残し検証体制を作っておく必要はありますね。